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no255 35 みちのく・赤羽・三鷹 の輪廻
35 みちのく・赤羽・三鷹 の輪廻
だいもんゆきこ
東北の児童文学作家といえば、前回の、宮沢賢治。
でも同じ岩手で、忘れちゃならない、柏葉幸子。ジブリ映画の原作?にもとりあげられた「霧のむこうの不思議な町」(1975)でデビューした作家だ。私は最初にこの話を読んだとき、欧米の物語に慣れ親しんできた同世代の人が、それを日本のお話にまとめあげていたというのに、驚いた。ちょうど、東北の仙台に住んでいて、大人になってから再び児童文学を読み始めたところだったので、身のほど知らずながら、なんだか悔しいような気さえした。
柏葉幸子の作品は、ファンタジーの素材が、和洋をとわず、縦横無尽、自由自在に取り込まれている。特に、「天井うらのふしぎな友だち」(1985)は、東北の風土を感じさせる。この作品が書かれるきっかけになったのかも、と思うのが、青森出身の三浦哲郎の「ユタと不思議な仲間たち」(1971)。生きたくても生きられなかった座敷わらしたちが出てくる。
作者の三浦哲郎は、児童文学作家ではない。太宰治の小説をきっかけに、文学を志したということだが、死につきまとわれているのは太宰どころではない。兄、姉を自殺、失踪で失うというめぐりあわせの中で、半ば私小説のような作品を書いている。芥川賞受賞の「忍ぶ川」(1960)は、薄幸の若い二人が結ばれていく話だが、常に何かの重みに耐え続け、それでも生きていけることを確かめているような感じがする。(加藤剛、栗原小巻で映画化、1975年ごろ、文化サークル系の学生主催の映画会でおなじみだったのはなぜだろう、ご存知の人は教えて)
私が三浦哲郎を読み始めたのは、誰かのために生きるとは別の次元で、死への垣根はとても低いのではないか、という問いがあると感じたのだが、怖いものみたさもあったのかもしれない。その作品は、ウィキペディアで「不幸な女性、故郷青森の風土を背景とした貧しい人々を描いて定評があり」とまとめられている。出稼ぎの夫と残されている妻、過疎化する村、取り残されていく閉塞感、と端的には当たらずとも遠からず。
しかし、背景、設定は確かに、取り残されたような東北の風土なのだが、その小さなエピソードと見せかけて、悪意と悪夢が見え隠れする短編集があり、その後味の悪さは、後を引く。私は、ホラー気味の話や、突然暴力や悪意がむき出しになる後味の悪い話は読めないのだけど、どうして、これは読めたのか。読んだとき若くて元気があったから?いやいや、質が違うのだろう…?巧妙な筋運び、描写で、悪意や悪夢は自分にもある普遍的なものから生み出されるのに気づかされ、あきらめのように納得してしまうのだと思う。
今手元にあるのは子どもたちが中心になる連作短編集、「木馬の旗手」(新潮文庫 1984)。電気で自分が動いていると思い込む子どもの話がある。誰もいないとき、外に出ないように紐でつながれて育ったのがその思い込むきっかけだが、その育ち方の問題提起ではなく、思い込みが誘う深淵そのものを見せている。ピアスの「まぼろしの小さな犬」を想起する。
それから、「真夜中のサーカス」(新潮文庫 1980)。赤犬が連作の最初と最後に現れ、より悪夢に近い話が顔を出す。あくまで記述はリアルで、そのため、普遍性を失うかと思えば、すっと身近に現れる。ここにも子どもの話があり、その無垢な無関心と悪意が忘れられなくなる。
この中の短編、「パレード」の中の、イチジク美容風呂と巴里館の話が、画家の司修が戦後の赤羽の様子を書いた「赤羽モンマルトル」(河出書房新社 1986)という小説に出てくるのだ。司修から聞いた話を書いたのか、三浦哲郎も赤羽にいたのか、ずっと気になっているご存知のかたは教えてください。赤羽は、私が仙台の次に住んだところだから。
(この項 続く)
だいもんゆきこ
東北の児童文学作家といえば、前回の、宮沢賢治。
でも同じ岩手で、忘れちゃならない、柏葉幸子。ジブリ映画の原作?にもとりあげられた「霧のむこうの不思議な町」(1975)でデビューした作家だ。私は最初にこの話を読んだとき、欧米の物語に慣れ親しんできた同世代の人が、それを日本のお話にまとめあげていたというのに、驚いた。ちょうど、東北の仙台に住んでいて、大人になってから再び児童文学を読み始めたところだったので、身のほど知らずながら、なんだか悔しいような気さえした。
柏葉幸子の作品は、ファンタジーの素材が、和洋をとわず、縦横無尽、自由自在に取り込まれている。特に、「天井うらのふしぎな友だち」(1985)は、東北の風土を感じさせる。この作品が書かれるきっかけになったのかも、と思うのが、青森出身の三浦哲郎の「ユタと不思議な仲間たち」(1971)。生きたくても生きられなかった座敷わらしたちが出てくる。
作者の三浦哲郎は、児童文学作家ではない。太宰治の小説をきっかけに、文学を志したということだが、死につきまとわれているのは太宰どころではない。兄、姉を自殺、失踪で失うというめぐりあわせの中で、半ば私小説のような作品を書いている。芥川賞受賞の「忍ぶ川」(1960)は、薄幸の若い二人が結ばれていく話だが、常に何かの重みに耐え続け、それでも生きていけることを確かめているような感じがする。(加藤剛、栗原小巻で映画化、1975年ごろ、文化サークル系の学生主催の映画会でおなじみだったのはなぜだろう、ご存知の人は教えて)
私が三浦哲郎を読み始めたのは、誰かのために生きるとは別の次元で、死への垣根はとても低いのではないか、という問いがあると感じたのだが、怖いものみたさもあったのかもしれない。その作品は、ウィキペディアで「不幸な女性、故郷青森の風土を背景とした貧しい人々を描いて定評があり」とまとめられている。出稼ぎの夫と残されている妻、過疎化する村、取り残されていく閉塞感、と端的には当たらずとも遠からず。
しかし、背景、設定は確かに、取り残されたような東北の風土なのだが、その小さなエピソードと見せかけて、悪意と悪夢が見え隠れする短編集があり、その後味の悪さは、後を引く。私は、ホラー気味の話や、突然暴力や悪意がむき出しになる後味の悪い話は読めないのだけど、どうして、これは読めたのか。読んだとき若くて元気があったから?いやいや、質が違うのだろう…?巧妙な筋運び、描写で、悪意や悪夢は自分にもある普遍的なものから生み出されるのに気づかされ、あきらめのように納得してしまうのだと思う。
今手元にあるのは子どもたちが中心になる連作短編集、「木馬の旗手」(新潮文庫 1984)。電気で自分が動いていると思い込む子どもの話がある。誰もいないとき、外に出ないように紐でつながれて育ったのがその思い込むきっかけだが、その育ち方の問題提起ではなく、思い込みが誘う深淵そのものを見せている。ピアスの「まぼろしの小さな犬」を想起する。
それから、「真夜中のサーカス」(新潮文庫 1980)。赤犬が連作の最初と最後に現れ、より悪夢に近い話が顔を出す。あくまで記述はリアルで、そのため、普遍性を失うかと思えば、すっと身近に現れる。ここにも子どもの話があり、その無垢な無関心と悪意が忘れられなくなる。
この中の短編、「パレード」の中の、イチジク美容風呂と巴里館の話が、画家の司修が戦後の赤羽の様子を書いた「赤羽モンマルトル」(河出書房新社 1986)という小説に出てくるのだ。司修から聞いた話を書いたのか、三浦哲郎も赤羽にいたのか、ずっと気になっているご存知のかたは教えてください。赤羽は、私が仙台の次に住んだところだから。
(この項 続く)
ひつじの7月の一言
紫陽花がいつになく色鮮やかに咲いています。
経済危機対策はあれこれと百花繚乱ですが、本当に庶民の暮しを直接潤すものはありません。
”国際競争に勝つ”為との経済界の言葉に事業主、大株主、高額所得者に甘い税制改革を次々と重ねてきた日本。しかし、色々な控除、免税、減税措置を受けられる層と、社会保障費を天引きなどで支払わされる層の格差は拡大するばかり。
イギリスは消費税を下げ、所得税の累進性を上げることを決めたという。日本は低所得者への負担の重い消費税を上げる議論ばかり。
まっとうに働いて、まっとうに暮らし、まっとうな子育てをして、まっとうな老後を送る。そんな暮らしが保障される社会を目指そう。
公共事業をてんこ盛りする今の政策からは、そんな姿勢が全く見えないのが残念・・・。
経済危機対策はあれこれと百花繚乱ですが、本当に庶民の暮しを直接潤すものはありません。
”国際競争に勝つ”為との経済界の言葉に事業主、大株主、高額所得者に甘い税制改革を次々と重ねてきた日本。しかし、色々な控除、免税、減税措置を受けられる層と、社会保障費を天引きなどで支払わされる層の格差は拡大するばかり。
イギリスは消費税を下げ、所得税の累進性を上げることを決めたという。日本は低所得者への負担の重い消費税を上げる議論ばかり。
まっとうに働いて、まっとうに暮らし、まっとうな子育てをして、まっとうな老後を送る。そんな暮らしが保障される社会を目指そう。
公共事業をてんこ盛りする今の政策からは、そんな姿勢が全く見えないのが残念・・・。
ひつじの6月の一言
気温が乱高下していて、ふりまわされますね。
とっても振り回されたのが、インフルエンザ対策。モチロン新型。空気感染をする病気に検疫は無理という話は当初からあった。やっぱり既に国内感染していた。
その時点で防護服の検疫体制から、国内の感染防止に重点を移すべきだったと、厚労相の現役医系技官が国会で発言した。
空港検疫は、アイキャッチ、パフォーマンスとして使われたのではないかと。
今回の必要以上の大騒ぎ、誰が設けるのだろう?私は「タミフルがやっぱり効く」という話が気になる。強い副作用で慎重な使用となっていたはずなのに、未成年に使用しても大丈夫だったと…。
耐性菌をつくるような使い方をして、最も必要な抗ガン剤使用者や小児白血病などの患者の治療の可能性をつぶしているとか。
薬害が一向になくならない日本の医療行政…sigh
とっても振り回されたのが、インフルエンザ対策。モチロン新型。空気感染をする病気に検疫は無理という話は当初からあった。やっぱり既に国内感染していた。
その時点で防護服の検疫体制から、国内の感染防止に重点を移すべきだったと、厚労相の現役医系技官が国会で発言した。
空港検疫は、アイキャッチ、パフォーマンスとして使われたのではないかと。
今回の必要以上の大騒ぎ、誰が設けるのだろう?私は「タミフルがやっぱり効く」という話が気になる。強い副作用で慎重な使用となっていたはずなのに、未成年に使用しても大丈夫だったと…。
耐性菌をつくるような使い方をして、最も必要な抗ガン剤使用者や小児白血病などの患者の治療の可能性をつぶしているとか。
薬害が一向になくならない日本の医療行政…sigh
no254 34 オッペル はたまた オツベル?
34 オッペル はたまた オツベル?
だいもんゆきこ
三鷹市の中1は、教科書で宮沢賢治の作品「オツベルと象」を読む。『オツベル』?『オッペル』じゃないの?
1934年発行の宮沢賢治全集に「オッペルと象」という題名で収められたこの話、それ以降『オッペル』になったそうな。でも、実は、最初にこの作品が掲載された1926年発行の雑誌では、「オツベルと象」なのだ。で、1974年の筑摩版の全集から「オツベルと象」と元に戻った、」ということらしい(宮沢賢治童話全集7 オツベルと象 の作品案内より)。解釈の違いではなく、『オッペル』とは単なる間違いだったのか。読書遊び用にと、手元にある、岩波書店の宮沢賢治童話集1「風の又三郎」(1963年)をコピーしていたのだが、使えなくなってしまった。
この話は、やってきた象をトコトン利用しようとするオツベルが、結局、助けに来た象の仲間にやっつけられると言う話。オッペル、と促音、半濁音のほうが、軽さがあって、象に付け込んで破滅してしまった人らしい感じがする。というのは負け惜しみで、オツベル、のほうが、傲慢で悪い奴、と言う感じになるかもしれない。
思えば、私はこの話を、オツベルに焦点を当てて、寓話的に読んでいたような気がする。だから、象や『さらの木』がでてくるからと、インド風に絵本や挿絵がえがかれ、オツベルがターバンなんかを巻いていると、具体的過ぎてなんだか居心地悪い。もっと国籍不明の感じにしたほうが、却って身近に感じられるのではないかと思うのだが、どうだろうか。
そう思うのも、宮沢賢治の作品で子どもの私の印象に残っていたのが、ちょっと不気味な動物の寓話だったからかもしれない。
その名も「蜘蛛となめくぢと狸」!この3匹?が、あなぐま先生の学校に入って、競争ということを教えられ、卒業後もお互いを意識して一番になろうと競争するのだが、その結果、それぞれ、腐ったり、溶けたり、裂けたり、という末路をたどる。あなぐま先生は、『ああ、3人とも賢い、いい子どもらだったのに、実に残念なことをした。』というばかり。合間に、賢治ならではの、自然の描写が入るが、それも話の怖さを引き立たせるのに効果的だ。
寓話的なものは、他にも、ねずみの話がある。
新版宮沢賢治童話全集 1 ツェねずみ 岩崎書店(1978年発行)
には、「鳥箱先生とフウねずみ」「ツェねずみ」「クンねずみ」が入っている。どれも、ねずみは卑小に描かれていて、かわいそう。って、これは人間のことか。同じ全集の2 ふたごの星 にある、「かえるのゴムぐつ」は、カエルの話だけど、あらゆる年代が流行に惑わせられている今、ますます風刺の毒を強めているのではないだろうか。
実は、「蜘蛛となめくぢと狸」は、子どものころ読んだきり、題名もうろ覚えだったのだが、学級文庫用の小冊子集、新編雨の日文庫 麦書房 昭和40年発行53年(1978年)5刷
をたまたま手に取る機会があって、再会した。3、4年生向けの第2集に入っているもので、題名も含めて、ひらがな、わかちがきの紙面になっている。面白いけど、3、4年生に読ますのか?と、我ながら思うけど、そのころだから素直に読むのかもしれない。岩崎書店の全集には入っていないので、「蜘蛛となめくぢと狸」で図書館で検索してみてください。
なお、岩崎書店の全集3 セロひきのゴーシュ に入っている、「毒もみのすきな署長さん」は、もっと怖い。うかつに、賢治は語れなくなってしまうけど、まあ、いいとこどりが、一般読者の特権ですから。
だいもんゆきこ
三鷹市の中1は、教科書で宮沢賢治の作品「オツベルと象」を読む。『オツベル』?『オッペル』じゃないの?
1934年発行の宮沢賢治全集に「オッペルと象」という題名で収められたこの話、それ以降『オッペル』になったそうな。でも、実は、最初にこの作品が掲載された1926年発行の雑誌では、「オツベルと象」なのだ。で、1974年の筑摩版の全集から「オツベルと象」と元に戻った、」ということらしい(宮沢賢治童話全集7 オツベルと象 の作品案内より)。解釈の違いではなく、『オッペル』とは単なる間違いだったのか。読書遊び用にと、手元にある、岩波書店の宮沢賢治童話集1「風の又三郎」(1963年)をコピーしていたのだが、使えなくなってしまった。
この話は、やってきた象をトコトン利用しようとするオツベルが、結局、助けに来た象の仲間にやっつけられると言う話。オッペル、と促音、半濁音のほうが、軽さがあって、象に付け込んで破滅してしまった人らしい感じがする。というのは負け惜しみで、オツベル、のほうが、傲慢で悪い奴、と言う感じになるかもしれない。
思えば、私はこの話を、オツベルに焦点を当てて、寓話的に読んでいたような気がする。だから、象や『さらの木』がでてくるからと、インド風に絵本や挿絵がえがかれ、オツベルがターバンなんかを巻いていると、具体的過ぎてなんだか居心地悪い。もっと国籍不明の感じにしたほうが、却って身近に感じられるのではないかと思うのだが、どうだろうか。
そう思うのも、宮沢賢治の作品で子どもの私の印象に残っていたのが、ちょっと不気味な動物の寓話だったからかもしれない。
その名も「蜘蛛となめくぢと狸」!この3匹?が、あなぐま先生の学校に入って、競争ということを教えられ、卒業後もお互いを意識して一番になろうと競争するのだが、その結果、それぞれ、腐ったり、溶けたり、裂けたり、という末路をたどる。あなぐま先生は、『ああ、3人とも賢い、いい子どもらだったのに、実に残念なことをした。』というばかり。合間に、賢治ならではの、自然の描写が入るが、それも話の怖さを引き立たせるのに効果的だ。
寓話的なものは、他にも、ねずみの話がある。
新版宮沢賢治童話全集 1 ツェねずみ 岩崎書店(1978年発行)
には、「鳥箱先生とフウねずみ」「ツェねずみ」「クンねずみ」が入っている。どれも、ねずみは卑小に描かれていて、かわいそう。って、これは人間のことか。同じ全集の2 ふたごの星 にある、「かえるのゴムぐつ」は、カエルの話だけど、あらゆる年代が流行に惑わせられている今、ますます風刺の毒を強めているのではないだろうか。
実は、「蜘蛛となめくぢと狸」は、子どものころ読んだきり、題名もうろ覚えだったのだが、学級文庫用の小冊子集、新編雨の日文庫 麦書房 昭和40年発行53年(1978年)5刷
をたまたま手に取る機会があって、再会した。3、4年生向けの第2集に入っているもので、題名も含めて、ひらがな、わかちがきの紙面になっている。面白いけど、3、4年生に読ますのか?と、我ながら思うけど、そのころだから素直に読むのかもしれない。岩崎書店の全集には入っていないので、「蜘蛛となめくぢと狸」で図書館で検索してみてください。
なお、岩崎書店の全集3 セロひきのゴーシュ に入っている、「毒もみのすきな署長さん」は、もっと怖い。うかつに、賢治は語れなくなってしまうけど、まあ、いいとこどりが、一般読者の特権ですから。
no253 33おいしいもの探し メープルシロップとコゴミ
33 おいしいもの探し メープルシロップとコゴミ
だいもんゆきこ
ジンジャーブレッドというものはおいしいのだろうか?そんなことは考えずに、ただ、外国お話を読んでいた。カタカナ名前のお菓子や食べ物なら、なんでも素敵だった。食べてみたい!と思って読んでいたのか、というと、ちょっと違う。(食べてみたい!と思っていれば私も料理好きになったかもしれないけど)。「クルミほどの大きさのダイヤ」、「金銀の衣装」、と同じように、お話の一部分として味わっていたような気がする。
でも、アメリカの開拓農民の生活を描いた、
「大草原の小さな家」シリーズ ローラ・インガルス・ワイルダー
に出てくる食べ物は、食欲に直接訴えてきた。食べ物を作ることが生活することである、自然の中では、食べ物は光輝く。町が雪に閉じ込められ、食糧が尽きかける「長い冬」(岩波書店)では、主人公ローラの家の小麦を一食ずつコーヒー挽きで粉にして作るパンと、アルマンゾ(のちにローラの夫になる)が焼く何枚も積み重ねて赤砂糖をかけたホットケーキが、同じように光っている。
中でもローラの幼いころの話、「大きな森の小さな家」(福音館書店・講談社)は、食べ物の話がいっぱい。私の好みは、冬に備えて豚を解体し、保存食を作る中で、子どもたちがもらう、豚のしっぽ。棒につきさしてあぶって焼き、塩をふって食べる!年に一度限りのお楽しみ。少し味が想像できるからか、より食欲がそそられる。豚のしっぽって、どのくらい肉がついているのでしょうね。もちろん、メープルシロップのパーティも魅力的。大人も子どももいっしょに、煮詰めたシロップを皿にいれた雪にたらし、やわらかいあめになったのを食べる、のだ。メープルシロップの作り方やパーティの描写はもちろん面白いけど、あめを食べるところが一番だと思う。
メープルシロップと言えばカナダ産が身近だけれど、この話はアメリカ、ウィスコンシンの森の話。最近、同じくアメリカの、メープルシロップ作りの話を読んだ。
「メープルヒルの奇跡」 ヴァージニア・ソレンセン ほるぷ出版
1957年にニューベリー賞受賞という少し古い作品(翻訳出版は2005年)で、戦争で精神的に痛手を受けたおとうさんのために、田舎暮らしを始める、という展開。自動車やトラクターのある時代でも、主人公の家族のお隣さん、クリスさんのシロップ作りの基本は変わらない。森のなかの製糖所と名づけた小屋で、バケツで集めた樹液を煮詰めてシロップを作る。シロップを煮詰めてのあめの話も、『製造完了を祝うパーティをする際に、よく作っていたわ』と出てきた。
メープルシロップ作りは雪の中で始まり、雪が消えるころに終わる。そのころ、
『あの色が見える?あの、うっすらとした赤い色。あれが春なんだ、ってクリスは言ってたよ』とお父さんに教えてもらう、その名前が、スカンクキャベツ。春になって訪れる『樹液の次の奇跡』と書かれている。
えっ、スカンクキャベツといえば、りゅうの食べ物だと思っていたのだけど。あの「エルマーのぼうけん」の第2作、「エルマーとりゅう」で、りゅうは言う。『ぼくはね、どうぶつ島にいるときは、スカンクキャベツとダチョウシダを、たべてたんだ。』調べてみると、スカンクキャベツとは、和名をザゼンソウといい、赤い色の水芭蕉とみたいなものらしい。なるほど、春だし、「エルマーとりゅう」の挿絵とも合う。
それなら、ダチョウシダ、もほんとにあるのだろうか?と調べると、Otrich fern、クサソテツだということ。その若芽は、コゴミと呼ばれている。あの、山菜の。ここで食欲誘われることになるとは。連休お出かけで、水芭蕉を見たときは、メープルシロップと、りゅうを連想してください。コゴミの天ぷら食べたときもね。
だいもんゆきこ
ジンジャーブレッドというものはおいしいのだろうか?そんなことは考えずに、ただ、外国お話を読んでいた。カタカナ名前のお菓子や食べ物なら、なんでも素敵だった。食べてみたい!と思って読んでいたのか、というと、ちょっと違う。(食べてみたい!と思っていれば私も料理好きになったかもしれないけど)。「クルミほどの大きさのダイヤ」、「金銀の衣装」、と同じように、お話の一部分として味わっていたような気がする。
でも、アメリカの開拓農民の生活を描いた、
「大草原の小さな家」シリーズ ローラ・インガルス・ワイルダー
に出てくる食べ物は、食欲に直接訴えてきた。食べ物を作ることが生活することである、自然の中では、食べ物は光輝く。町が雪に閉じ込められ、食糧が尽きかける「長い冬」(岩波書店)では、主人公ローラの家の小麦を一食ずつコーヒー挽きで粉にして作るパンと、アルマンゾ(のちにローラの夫になる)が焼く何枚も積み重ねて赤砂糖をかけたホットケーキが、同じように光っている。
中でもローラの幼いころの話、「大きな森の小さな家」(福音館書店・講談社)は、食べ物の話がいっぱい。私の好みは、冬に備えて豚を解体し、保存食を作る中で、子どもたちがもらう、豚のしっぽ。棒につきさしてあぶって焼き、塩をふって食べる!年に一度限りのお楽しみ。少し味が想像できるからか、より食欲がそそられる。豚のしっぽって、どのくらい肉がついているのでしょうね。もちろん、メープルシロップのパーティも魅力的。大人も子どももいっしょに、煮詰めたシロップを皿にいれた雪にたらし、やわらかいあめになったのを食べる、のだ。メープルシロップの作り方やパーティの描写はもちろん面白いけど、あめを食べるところが一番だと思う。
メープルシロップと言えばカナダ産が身近だけれど、この話はアメリカ、ウィスコンシンの森の話。最近、同じくアメリカの、メープルシロップ作りの話を読んだ。
「メープルヒルの奇跡」 ヴァージニア・ソレンセン ほるぷ出版
1957年にニューベリー賞受賞という少し古い作品(翻訳出版は2005年)で、戦争で精神的に痛手を受けたおとうさんのために、田舎暮らしを始める、という展開。自動車やトラクターのある時代でも、主人公の家族のお隣さん、クリスさんのシロップ作りの基本は変わらない。森のなかの製糖所と名づけた小屋で、バケツで集めた樹液を煮詰めてシロップを作る。シロップを煮詰めてのあめの話も、『製造完了を祝うパーティをする際に、よく作っていたわ』と出てきた。
メープルシロップ作りは雪の中で始まり、雪が消えるころに終わる。そのころ、
『あの色が見える?あの、うっすらとした赤い色。あれが春なんだ、ってクリスは言ってたよ』とお父さんに教えてもらう、その名前が、スカンクキャベツ。春になって訪れる『樹液の次の奇跡』と書かれている。
えっ、スカンクキャベツといえば、りゅうの食べ物だと思っていたのだけど。あの「エルマーのぼうけん」の第2作、「エルマーとりゅう」で、りゅうは言う。『ぼくはね、どうぶつ島にいるときは、スカンクキャベツとダチョウシダを、たべてたんだ。』調べてみると、スカンクキャベツとは、和名をザゼンソウといい、赤い色の水芭蕉とみたいなものらしい。なるほど、春だし、「エルマーとりゅう」の挿絵とも合う。
それなら、ダチョウシダ、もほんとにあるのだろうか?と調べると、Otrich fern、クサソテツだということ。その若芽は、コゴミと呼ばれている。あの、山菜の。ここで食欲誘われることになるとは。連休お出かけで、水芭蕉を見たときは、メープルシロップと、りゅうを連想してください。コゴミの天ぷら食べたときもね。


